かっちゃんの日記

 -見て、聴いて、楽しかったこと、嬉しかったことの覚え書きです

2017年5月 国立劇場 文楽公演|寿柱立万歳・菅原伝授手習鑑

国立劇場 第一九九回文楽公演 平成二十九年五月(5月13日~29日)

<第一部>
・寿柱立万歳〈約16分〉※終了後、休憩10分
・菅原伝授手習鑑
  茶筅酒の段〈約38分〉
  喧嘩の段〈約15分〉
  訴訟の段〈約18分〉
  桜丸切腹の段〈約36分〉※終了後、休憩30分
 豊竹英太夫改め六代豊竹呂太夫 襲名披露 口上〈約10分〉※終了後、休憩15分
  寺入りの段〈約13分〉
  襲名披露狂言 寺子屋の段〈約1時間9分〉

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国立劇場の案内ちらしをお借りしました
 「菅原伝授手習鑑」松王丸(撮影:青木信二)

覚え書きがすっかり遅くなってしまいましたが、久しぶりの文楽です。嬉しい!
第一部は、六代 豊竹呂太夫さんの襲名披露狂言ということもあってか、発売早々に満席になりましたが、公演期間が始まる少し前に、平日を中心に空席が出ましたね。 別の用事で休む予定だった平日に運よくチケットを取ることができました。前にも書きましたが、この「戻り」がどういう仕組みになってるのかわからないのですが、粘り強く頑張ろう。

<第一部>菅原伝授手習鑑
■主な登場人物
・梅王丸:右大臣 菅丞相(菅原道真)に仕える|春:梅王丸の妻
・松王丸:左大臣 藤原時平に仕える|千代:松王丸の妻|小太郎:二人の息子
・桜丸:斎世親王に仕える|八重:桜丸の妻
・四郎九郎改め白太夫:三つ子の梅王丸・松王丸・桜丸の父親。菅丞相の下屋敷で隠居

■あらすじ
桜丸と八重が取り持った斎世親王と菅丞相の養女の密会がきっかけで、菅丞相は政敵である藤原時平に陥れられ流罪になってしまいます。菅丞相の息子の管秀才は寺子屋の主人・武部源蔵と戸浪夫妻に匿われました。それぞれの主の関係性が崩れたことで、三つ子同志の関係性も非常に難しくなっているという背景があります。

茶筅酒の段】
そんな中、四郎九郎は70歳の誕生日に名を白太夫と改めることになり、お祝いに三つ子の妻たちがまず集まります。夫たちが到着しないため、庭にある梅・松・桜を三つ子に見立てて祝いの儀を取り行い、その後、白太夫は八重と一緒に氏神様へと出かけます。

【喧嘩の段】
梅王丸と松王丸が姿を見せますが、喧嘩になり、庭の桜を折ってしまいます。

【訴訟の段】
戻ってきた白太夫に、梅王丸は主である菅丞相の元へ行くことを訴えますが、却下されてしまいます。一方、松王丸は自分の主である時平が、父親や兄弟の主である菅丞相と敵対しているという複雑な立場に置かれており、勘当を申し出ますが、この訴えは聞き入れられました。

【桜丸切腹の段】
そこへ桜丸が現れ、菅丞相の流罪のきっかけを作ってしまったことの責任を取り切腹すると話し、八重が引き止めます。しかし白太夫は桜の木が折れたことを引き合いに、これも運命であるとして切腹の準備を整え、桜丸は自ら命を絶ってしまいます。

【寺入りの段】
舞台は菅丞相の息子である管秀才を匿う武部源蔵の寺子屋に変わります。留守を預かる妻の戸浪の元に、母親に連れられ小太郎という子が入門にやってきますが、母親は用を済ませてくると立ち去ります。

寺子屋の段】
源蔵が寺子屋に戻ってきますが、時平の家来である春藤玄蕃から、管秀才の首を渡すように言われ困り果てていたところ、入門した小太郎を見つけて、身代りにすることを思い付きます。そこへ玄蕃と首の検分役の松王丸が現れます。源蔵は奥の間で小太郎の首を討ち、松王丸に差し出したところ、管秀才のもので間違いないとして二人は立ち去ります。
その後、小太郎の母親が戻ってきます。源蔵は仔細を知られまいと切りかかりますが、母親は小太郎は身代わりとして役に立ったかと話し、そこへ松王丸も姿を見せます。実は小太郎は松王丸と母親つまり千代の息子で、菅丞相の恩に報いるために、小太郎を身代りにすべく入門させたことを源蔵に告げます。自らが置かれた状況を承知し、逃げ隠れせず潔く自分の首を差し出した小太郎。松王丸と千代は白装束となって、小太郎の野辺送りをするところで終わります。

おおっ、思いのほか、長くなってしまいました。
この時代の道理というのは、いつも本当に理解しがたいのですが、けなげに道をまっとうする人たちに心を持っていかれます。このお話では、特に松王丸と千代の息子である小太郎が管秀才の身代わりとなって最後を遂げる場面がまさにそれでした。
「アヽイヤ若君管秀才の御身代わりと言ひ聞かしたれば、潔う首差し延べ」
「アノ逃げ隠れも致さずにナ」
「につこりと笑うて」
というくだりは、けなげで、けなげで。7歳の子供が自分の置かれている状況をまるっと理解して、にっこり笑うなんて。そしてお母さんのお千代さんの心情はいかばかりかと考えるとうるっときます。
最後は小太郎を送る、
「・・・いろは書く子を敢へなくも、散りぬる命、是非もなや。明日の夜誰か添へ乳せん。らむ憂ゐ目見る親心、剣と死出のやまけ越え、あさき夢見し心地して、跡は門火に酔ひもせず、京は故郷と立ち別れ、鳥辺野指して連れ帰る」
という重々しくも流れるような「いろは送り」に、心と身体が揺られるのを感じながら幕が閉じられたのでした。

<公式サイトへのリンク>
国立劇場 2017年5月文楽公演

 

2017年5月 国立能楽堂 普及公演|呼声・清経

国立能楽堂 五月 普及公演(2017年5月13日)
・解説・能楽あんない|世阿弥が「清経」に込めたもの-天野文雄(約30分)
狂言大蔵流】|呼声(約15分)※終了後、休憩20分
・能【観世流】|清経 替之型(約70分)

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国立能楽堂の案内ちらしをお借りしました。
 紅地有卦舟模様唐織(江戸時代・十九世紀・国立能楽堂蔵)

この日の東京は一日中、雨降りでした。国立能楽堂の中庭は、青々とした草木が目にすがすがしく、敷石や苔は雨でしっとりとして、とても心地よい空間でした。写真を撮っておられる方も多かったです。

さて、まず狂言は「呼声(よびごえ)」です。主人と次郎冠者が、無断で旅に出た太郎冠者を叱りつけようと家を訪ねます。主人は気づかれまいと声色を使って太郎冠者に呼びかけますが、声で勘付かれてしまいます。また太郎冠者も留守を預かっている人のふりをして返事をするのですが、これまた声で主人に勘付かれてしまいます。双方バレバレです。
それでも平家節、小歌節、踊り節と手法と替えて、主人と次郎冠者は呼びかけ、太郎冠者は居留守の返事を繰り返します。最後の踊り節では、なんだか双方ともに楽しくなってきて、興に乗って「お目にかかろ」「留守でござる」と謡って踊っているうちに、鉢合わせしてしまうところで終わります。この「しまいにはなんだか楽しくなってきて」というのは狂言によくありますよね。そんなあほな展開があるかいなと思いつつも、でもなんか気持ちわかるわ~とも思ったりもします。楽しかったな~。

続いてお能は「清経」です。源氏に追われ、妻を残して都を出た平清経(シテ)は、豊前の国にて入水し自ら命を絶ちました。清経に仕えていた淡津三郎(ワキ)は遺髪を持って、都にいる清経の妻(ツレ)に届けますが、見るたびにつらくなると言って、手元に置くことを拒みました。
そして、その夜、清経の霊が妻の元に現れます。どうして遺髪を受け取ってくれないのかと問う清経に対して、妻はどうして自分を残して一人で死んでしまったのかと責めます。清経は豊前の国にある宇佐八幡宮に参詣したときに聞いた「祈ってもどうにもならない」という神詠に心を打ち砕かれて、自ら死を選んだことを語ります。一度は修羅道にて苦しみながらも、最期に唱えた念仏のおかげで成仏することができたというお話です。
全体を通してずっと緊張感はあるのですが、詞章の流れに心地よく身を委ねるような感覚もあり、最後の清経の修羅から成仏への舞いにはぐっと引き込まれました。まだまだ勉強不足で、詞章を全て聞き取れるわけではないのですが、ゆっくりと読み返してみると、語り言葉の運びが美しいなぁと改めて感じました。

<メモ>今月も国立能楽堂の収蔵資料展が開催中で、後期(5月2日~25日)は能面・能装束展でした。上記のちらしのモチーフとなっている「紅地有卦舟模様唐織」も展示がありました。わーい!解説によると祝い事のために贈られた唐織で、「ふ(富)」が頭に付く、舟、縁雪、筆、文、藤袴、深見草、福寿草が織り表されているそうです。筆のあしらい方が恰好いい!
国立能楽堂の資料展示室はこじんまりしたスペースで、展示数もそれほど多くないのですが、眼福な展示を見せていただけるのでお勧めです。ほくほく。

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国立能楽堂 2017年5月普及公演

2017年4月 国立能楽堂 普及公演|膏薬煉・野守

国立能楽堂 四月 普及公演(2017年4月8日)
・解説・能楽あんない|野守の鏡は何をうつす?-「野守」の説話的背景-田中貴子(約30分)
狂言大蔵流】|膏薬煉(約25分)※終了後、休憩20分
・能【観世流】|野守 白頭(約60分)

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国立能楽堂の案内ちらしをお借りしました。
 白地青海波網桜花模様肩衣(江戸時代・十八~十九世紀・国立能楽堂蔵)

まず狂言は「膏薬煉」です。膏薬とは塗り薬のことで、鎌倉の膏薬煉と京都の膏薬煉が、お互いに自分のところの膏薬の方が効き目がすごいと競い合うお話です。
「うちの膏薬は馬を吸い寄せた!」、「いやいやうちは大きな石を吸い寄せた!」という逸話の披露から始まり、続いて「うちの膏薬の材料には、石のはらわたや木になる蛤を使っている!」、「いやいやうちは地を走る雷、雪の黒焼きを使っている!」とありもしない材料を自慢し合います。ここの材料は流派によって出てくるものが違うそうです。しかし雪の黒焼きて。
最後はお互いの薬を塗った紙を鼻に貼り付けて、「吸えー」、「吸われはせぬ」と吸い比べが始まり、ねじ寄せ、しゃくり寄せという技(?)も繰り出されます。所狭しと行ったり来たりの掛け合いが、理屈抜きにわかりやすく楽しめるお話でした。

続いてお能は「野守」です。舞台は奈良の春日野で、旅の途中の山伏が池の前で野守の老人と出会い、池の名前を尋ねます。老人は自分のような野守が朝夕と姿を映していることから野守の鏡と呼ばれているけれど、昔この野に住んでいた鬼神が昼は人の姿で野を守り、夜は鬼となって塚に住んでいて、その鬼神が持っている鏡こそが真の野守の鏡なのだと語ります。加えて、その昔、狩りをしていて鷹を見失った天皇が野守に出合い、鷹はそこにいますよと池の底に映った鷹を教えられ、見上げると木の上に留まる鷹を見つけたという逸話を語ります。興味を持った山伏は真の野守の鏡が見たいと言いますが、野守は塚の中に姿を消してしまいます。

このあとアイの男が現れて、野守の鏡の逸話を山伏に教え、その老人は鬼神なのではないかと話します。山伏がお経を唱えると、塚の中から真の「野守の鏡」を持った鬼神が姿を現します。鬼神は祈祷を続けてほしいと言い、力強い動きをもって、天界や地獄の様子を映し出した後、「すはや地獄に帰るぞとて、大地をかつぱと、踏み鳴らし、大地をかつぱと、踏み破つて、奈落の底にぞ、入りにける」と戻っていきます。

このお能は私も含めて初心者にはとてもわかりやすいと思いました。鏡をモチーフとした話の筋は明解で、前場後場は対照的で緩急があります。またアイの語りも前場の詞章をなぞるような内容で理解しやすく、全体を通して話が頭にすっと入ってきて、謡や動きに集中することができました。最後に鬼神がトンと軽く飛び上がって、そのままどかっと床に座ることで、奈落の底、地獄に戻っていくというシーンが印象に残りました。

冒頭の解説で、田中貴子さんによる、野守の鏡にまつわる和歌や書物の紹介や、奈良の春日野に関するお話がありました。物語の背景や伏線、また舞台となる土地について知ることで、鑑賞の理解が深まり、また目に心に浮かぶ光景に奥行きが出る感じがしました。久々に奈良に行ってみたいな~。

<メモ>
国立能楽堂の収蔵資料展が開催中で、前期(4月8日~30日)は狂言資料展でした。上記のちらしのモチーフとなっている「白地青海波網桜花模様肩衣」も見ることができて嬉しかったです。実物を見ると目の粗い布地なのですが、ちらしに展開するときは、適切な加工が施されていることにも改めて気づきました。どこまで加工して、どこを切り取るかということは、毎号工夫されてるんやろな~。後期(5月2日~25日)は能面・能装束展とのことでこちらも楽しみです。

<公式サイトへのリンク>
2017年4月普及公演 膏薬煉・野守

 

2017年3月 文楽 京都公演|近頃河原の達引

文楽 平成29年3月 京都公演  
 京都府立文化芸術会館(2017年3月18日・プログラムB)

・解説(あらすじを中心に)
・近頃河原の達引|四条河原の段、堀川猿廻しの段

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文楽協会の案内ちらしをお借りしました。

今年も京都の文楽地方公演に行ってきました。演目はプログラムBの「近頃河原の達引」です。(プログラムAは妹背山婦女庭訓でした)
物語の最後、生きるとも死ぬともわからない旅路につく伝兵衛とおしゅん。そんな二人を見送るおしゅんの母と兄・与次郎。与次郎は猿廻しで二人の門出を祝います。この場面は三味線にツレが加わり掛け合いで演奏され、ぐぐっと惹きこまれる聴かせどころです。音の運びも大きくて、「さんな、まぁた、あ~ろか~いな」とリズムも軽快なのですが、お猿の動きが愛らしければ愛らしいほど、与次郎の謡いが軽妙であればあるほど、二人の行く末が案じられ、いじらしく、やるせなく、せつなく、しんみりとした気持ちになります。こういう感情はなんて表現するのがええんかな?泣きたくなるというより、胸がきゅっとなる感じ。文楽ではこういう気持ちになることが多いのですが、三業だからこそ創り出せる魅力の一つなんかなと感じます。

<メモ>
今回も字幕表示機(縦書き)が下手に設置されていました。太夫さんと三味線弾きさんがいはる床は、上手に少し張り出すような形で設けられていて、文楽廻しはなく、手動でスルスルと御簾を上げ下げされていました。地方公演は会場によっていろいろと工夫してはるんやろな~。

また会場では来年の公演案内パンフレットが早々と配られていました。京都公演は2018年3月22日~24日の3日間(時間は未定)、演目は桂川連理柵と曽根崎心中だそうですよ。

この時期の京都は、梅は散りはじめ、桜はもう少し先ということが多いのですが、たけのこ、こごみ、うど、えんどう豆など、春の訪れを感じさせてくれる食がたくさん味わえるのも楽しみの1つです。また来年も行けるように頑張るぞ!

2017年3月 国立能楽堂 普及公演|濯ぎ川・昭君

国立能楽堂 三月 普及公演(2017年3月11日)
・解説・能楽あんない|鏡の虚実―能「昭君」の機巧(からくり)大谷節子(約30分)
狂言大蔵流】|濯ぎ川(約30分)※終了後、休憩20分
・能【観世流】|昭君(約70分)

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国立能楽堂の案内ちらしをお借りしました。
 茶納戸段毘沙門亀甲繋獅子丸模様厚板(江戸時代・十八世紀・国立能楽堂蔵)

 「濯ぎ川」はフランスのファルス(笑劇)を元にして作られ、昭和28年に初演された新しい狂言です。入り婿の男が、嫁と姑にあれやこれやと用事を言いつけられて我慢も限界になり、「紙に書いた仕事以外はしない!」という約束を取り付けます。川に流されそうになった嫁を助けてやってほしいと頼む姑に対して「そんなこと書いてないからやらない~」と、日頃の鬱憤をいま晴らそうぞとばかりに言い張りますが、最後は嫁に責められ、姑に紙を破かれて、やりこめられてしまうというお話です。最後の姑(今回は茂山あきらさん)の動きが可笑しくて「やっぱりうまくいきませんでした。おしまい!」と語っているようでした。

続いてお能は「昭君」です。舞台の正面に柳の木が置かれ、そこに鏡が立てかけられます。白桃、王母の老夫婦が鏡を見る、その娘である昭君、更に昭君の夫である呼韓邪單于が鏡の中に現れるという状況を、鏡を囲むようにシテ2人とツレ2人が演じる構成が面白いなと思いました。流れるような最後の詞章もリズムが心地良く印象に残りました。
「ただ昭君の黛は、ただ昭君の黛は、柳の色に異ならず、罪を顕す浄玻璃は、それも隠れはよもあらじ、花かと見えて曇る日は、上の空なる物思ひ、影もほのかに三日月の、曇らぬ人の心こそ、誠を映す鏡なれ、誠を映す鏡なれ」

<公式サイトへのリンク>
2017年3月普及公演 濯ぎ川・昭君

2017年2月 国立劇場 文楽公演|平家女護島

国立劇場 第一九八回文楽公演 平成二十九年二月より(2月4日~20日)

近松名作集
<第一部>
近松門左衛門=作
 平家女護島
 六波羅の段〈約35分〉※終了後、休憩30分
 鬼界が島の段〈約1時間5分〉※終了後、休憩10分
 舟路の道行より敷名の浦の段〈約34分〉

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国立劇場の案内ちらしをお借りしました
 左「平家女護島」俊寛僧都、右「冥途の飛脚」梅川(いずれも撮影:青木信二)

 

2月の文楽国立劇場開場50周年記念の公演で「近松名作集」と銘打たれ、第一部が平家女護島、第二部が曾根崎心中、第三部が冥途の飛脚という演目でした。今回は、このうち、第一部の平家女護島に行ってきました。2017年最初の文楽です。嬉しい!

六波羅の段>平清盛が栄華を極めていた頃、平家を滅亡させようとした鹿ケ谷の陰謀の罪で、俊寛僧都、平判官康頼、丹波少将成経が鬼界が島に流されます。清盛の屋敷である六波羅に残された俊寛の妻あづまやは、清盛から誘われますが、夫に操を立てて誘いを断り自害します。それを知った俊寛に仕える有王丸が六波羅に討ち入りますが、能登守教経に、ここで命を落とすのではなく、主人の俊寛のことを考えろと言われ立ち去ります。

<鬼界が島の段>鬼界が島での俊寛の様相は3年にも及ぶ孤島での厳しい暮らしぶりをうかがわせますが、再会した康頼から、成経が千鳥という漁師の娘と恋仲になったことを告げられ、皆でささやかな祝言をあげます。

そこへ使者の瀬尾太郎兼康と丹左衛門基康を乗せた都からの赦免船が着き、康頼と成経は赦免、俊寛は能登守教経の計らいで備前の国まで戻れることになったと告げます。しかし成経と夫婦になった千鳥が一緒に船に乗ることを瀬尾に拒まれます。千鳥の「武士は、もののあはれ知るというは偽りよ、虚言よ。鬼界が島に鬼はなく、鬼は都にありけるぞや」から続くクドキがいじらしくて泣きそうになります。千鳥ちゃんの言う通りや。

さらに瀬尾はあづまやが自害したことを明かし、それを聞いた俊寛は落胆して、自分は島に残るので千鳥を乗せてやってほしいと頼みます。瀬尾はそれも拒んだため、俊寛は瀬尾を切り殺して、丹左衛門に千鳥を船に乗せるように頼みます。そして康頼、成経、千鳥を乗せた船は鬼界が島を離れ、俊寛はつまづき、転びながら、岸壁にかけ登って遠ざかる船をいつまでも見送ります。

<舟路の道行より敷名の浦の段>その後、船は敷名の浦に到着、そこで有王丸が待っていましたが、俊寛が乗っていないことがわかり、落胆して自害しようとしたところを千鳥に止められます。そして、清盛と後白河法皇が乗る御座船が敷名の浦に立ち寄ることがわかり、丹左衛門は怪しまれないように千鳥を船から降ろして有王丸に預けます。

法皇が源氏に加担することを恐れた清盛は、法皇を海に投げ込みますが、千鳥が法皇を助けて有王丸に託します。これに怒った清盛は千鳥を殺しますが、千鳥の怨念が清盛の頭に取り付いて清盛は都に逃げ帰ります。

つらい、つらいお話です。心がキューッと苦しくなる場面もありました。
一人島に残ることを決めた俊寛。あづまやはもうこの世にいない。
「アアこれ、我この島に留まれば、五穀に離れし餓鬼道に、今現在の修羅道、硫黄の燃ゆるは地獄道三悪道をこの世で果たし、後生を助けてくれぬか。俊寛が乗るは弘誓の船、浮世の船には望みなし。サア乗ってくれ、早や乗れ」

鬼界が島から船が出発するときに、千鳥が船から精一杯身を乗り出して、一生懸命に俊寛に手を振るのですが、もうそのしぐさが、いじらしくて、せつなくてぐっときました。(鬼界の島の段の千鳥は蓑助さんでした)
「名残惜しや、さらばや」「互いに未来で未来で」

<メモ>
私が行った日は、国立劇場の前庭の梅が咲き始めていた頃で、紅と白のかわいらしい花を楽しむことができました。全部で6種類の梅が植えられているそうです。すぐそこまで春が近づいてきましたね~。

<公式サイトへのリンク>
国立劇場 2017年2月文楽公演

2017年2月 国立能楽堂 企画公演|謡講・八島

国立能楽堂 二月 企画公演(2017年2月18日)
・おはなし|庶民のたのしみ-謡講(うたいこう)- 井上裕久
・独吟(京観世の節・二段下ゲで謡う)盛久 サシ・クセ
・独吟 五目謡
・謡講形式の素謡|熊野(ゆや) (以上、約45分)※終了後、休憩20分
・能【喜多流】|八島 弓流 奈須与市語(約105分)

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国立能楽堂の案内ちらしをお借りしました。
 上村松園「焔」(大正七年・東京国立博物館蔵)

 

2月のちらしはいつもと趣が違い、月間特集「近代日本画と能」というテーマにちなみ、お能の「葵上」がモチーフとなった絵画が取り上げられています。「源氏物語」の光源氏の正妻である葵の上に取り憑いた六条御息所の生霊が描かれているのですが、着物が白地に藤と蜘蛛の巣の柄で、それがまた怖さと凄みを増幅させています。

さて今回はこの「葵上」がかかる普及公演ではなく、企画公演に行ってきました。
前半は謡講(うたいこう)のおはなしから始まりました。謡講は能を謡だけで表現する素謡(すうたい)を楽しむ会として、江戸時代以降の特に京都で盛んに行われていたそうです。能舞台ではなくお座敷のような場所で、謡い手が聴衆から見えないように仕切り、聴衆は聴くことに集中して物語の情景を思い浮かべます。また「京観世」と呼ばれる独特の謡い方にも特徴があります。この謡講の再現に取り組まれている井上裕久さん(シテ方観世流)がとても楽しく解説をしてくださり、その後に実際に、京観世の謡い方での「盛久」、しりとり形式でどんどん違う曲につないでいく「五目謡」(かなり高度な技!)、そして謡講形式の素謡「熊野」と続きました。
また「今日は謡講やっとるよ~」という目印に軒先に提灯がかかること(国立能楽堂のロビーにもかかっていました)、参加する人はお酒を持っていき、それを出樽(しゅったる)と呼んでいたこと、謡い終わって今のは良かったと感じたら小さな声で「よっ」と言うことなど、周辺のお話もとても興味深かったです。謡が生活の中にあり、身近な存在やったんやな~。京都で開催されているそうなので、いちど行ってみたいです。

後半はお能の「八島」です。弓流、奈須与市語の小書付きで、間狂言三宅右近さんが迫真の語りと動きでした。その後、後シテの義経の亡霊が現れ、源平の激しい戦いのさまを語ります。戦いには勝ったとはいえ、失ったものも大きく、どこかはかなくて憂いを感じさせるお話でした。
今回は「蝋燭の灯りによる」ということで、客席は手元資料が読めないほど真っ暗になり、座席の字幕表示もありません。詞章を暗記できているわけではなく、聞き分けられない言葉もたくさんありました。ただ、詞章を目で追わず、耳だけでぐっと集中して聴くことで、リズムや抑揚のある音として言葉がすっと入ってくるので、いつもより深く鋭く感じられるように思いました。まだ初心者の私には難しいところもありましたが、新しい気づきがあり、いま体験できて良かったかなと思います。何事も行ってみよう、やってみよう!(でも予習は大事!)

<公式サイトへのリンク>
2017年2月企画公演  蝋燭の灯りによる|謡講・八島